アメリカ帰りの友人に野菜を届ける、変化する楽しみ

アメリカに住んでいるはずの友人から久しぶりに連絡が来ました。
 
その内容は
「日本に一時帰国をしていてコロナ対策である14日間の自宅での隔離生活を送っている。外に出られず楽しみがないので美味しいものが食べたいのだが、野菜を購入することはできるか」
というものでした。
 
ちょうど次の日、野菜の収穫がありましたので、すぐに見繕って届けました。
 
何より「自宅待機の楽しみ」のひとつとして僕の野菜を選んでくれたなんて嬉しいじゃありませんか。
おかげさまでその日はホクホクとした気持ちで終日過ごしました。

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近所のブロック塀
新型コロナウイルスによる不自由な自粛生活は我々の「楽しみ」にも変化を与えるように思います。
 
そういえば僕もかつて不自由な生活によって、その楽しみが変化した経験があることを思い出しました。
 
それは10年くらい前、大学を卒業してすぐに、農業の勉強で群馬県の山奥の村に住み込みで研修を受けている時でした。
そこは最寄りのスーパーまで車で30分、最寄りの駅までは車で1時間という、なかなかの僻地でした。
 
そんな僻地の村での生活は至ってシンプル。農作業して飯食って寝る、それ以外には何もないような、ある意味で隔離されたような、そんな生活を続けていました。
 
そしてある休みの日、その変化に気が付きました。
たまには出掛けようと町に繰り出していたときのこと、何気なくコカコーラを買おうと思い、自動販売機の前に立ちました。すると不思議と新鮮な感覚を感じます。小銭を入れるときの乾いた音、プラスチックの冷たいボタンの感触、コーラの弾ける細かな泡など、その一つ一つが実にリアリティーを持って僕の感受性を刺激するのです。その時、大人になって初めてジュースを買うことに「楽しみ」を感じたのです。
 
学生時代に幾度となく買った自動販売機のジュースです。それはもう学校や街のあちこちに当たり前にあって、存在を認識することもないくらい生活の中にありました。
しかし、何もない群馬県の僻地での、ある意味隔離された生活を数ヶ月送っていたことによって、ジュースを買うという「当たり前」の行為が「楽しみ」に変わっていたのです。
 
僕はこの経験から状況によって「楽しみ」は変化することを学びました。そして楽しみは享受するものではなく、どんな事柄でも楽しいと思うのか、つまんないと思うのかは自分次第なのだと思います。
 
失って初めて気づく、この愛の大きさ。
 
さて、アメリカ帰りの友人はその後、僕の野菜を楽しんでくれているでしょうか。
僕も今の生活スタイルの中で、少しでも多くの「楽しみ」を見つけられたらと思います。